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そして、その集積として、なんとかしなければならない、この閉塞状況を打開するには改革が不可欠である、という「改革の気分」が時代を支配することになる。
改革が至上命令となり、この改革に異議を唱える者は、時代の流れを理解しないドンキホーテか、問題の深刻さを理解しない専門バカか、そうでなければ現状に安住しようとする保守主義者だとして、批判されるか無視されるような状況にある。
しかし、ここで少し立ち止まって考えてみることが重要である。
この「改革の気分」はゆがんでいないだろうか。
こうした「問題」のとらえ方に問題はないのだろうか。
そこで提案され、進められている改革や対策は本当に「問題状況」を改善することになるのだろうか。
これまでに見てきたように、改革推進論を支配している問題のとらえ方はきわめて一面的であり、進められようとしている改革や対策には矛盾が多く、種々の重大な問題が見過ごされており、さらには、この「改革の気分」は全体主義的な傾向をもち始めている。
右に列挙した問題が重要で、なんらかの対応が必要だということはいうまでもないが、改革至牛主義的な時代の気分とそのなかで提案され進められている主要な改革は、日本の教育社会と学校のあり方を根本的に変えていく可能性、しかも見方によっては、極めて好ましくない方向に変えていく可能性をやどしている。
「問題」の制度化とカウンセラー配置の意義具体例を挙げて考えてみよう。
たとえば、いじめや不登校については、相談窓口の設置やカウンセラーの配置、転校措置の弾力化などが対策として講じられてきた。
いずれも、被害者個人のレベルでいえば、それなりの必要性と妥当性かあることはいうまでもない。
しかし、それが「言われている問題」の本質的な解決になるわけではない。
むしろ別の問題をはらんでいる。
とくにカウンセラーの配置と転校措置には、重要な問題が潜在している。
カウンセラーを配置するということは、いじめや不登校がなくならないということを前提にしている。
それは、ちょうど近代医学が発達し、医者の数が増えたからといって病気がなくならないのと同様である。
精神医学や臨床心理学が発達し、その分野の臨床医が増えたからといって、その対象となる病気がなくなったわけでもなければ、少なくなったわけでもない。
皮肉なことだが実際に起こったことは、その種の「病気」が増加し、その治療法や対処の仕方が一般化したということである。
すなわち、精神医学の発達によってその分野の病名と症状か次々と特定されるようになり、臨床医や臨床施設が増加し、その種の『病状』に対する正当な医療的対処の仕方が一般化し、制度化することになったということである。
ここI誤解のないようにしなければならないのは、むろん精神医学の発達や臨床医の増加がその種の病気や病状の出現・増加の原因ではないということである。
その直接的な原因を特定することは難しいが、また、一般的な増加傾向の原因と個別的な発現の背景とは区別して考えなければならないが、いずれにしても、社会のあり方、生活のあり方に原因があることは確かである。
家族や企業社会や学校社会のあり方、消費社会や都市社会のあり方、その複合のなかでの人間関係や生活のあり方、そこでの個々人の成長経験・生活経験のなかに原因があることは確かである。
「病気」や「病状」とその治療法や対処の仕方が制度化するということは、「病気」や「病状」がなくなるということでもなければ、減少するということでも、軽くなるということでもない。
そうではなくて、その問題に対する特定の社会的な付き合い方、対処の仕方が定着するということである。
いじめや不登校と、それに対する対策としてのカウンセラーの配置についても、同様のことがいえる。
カウンセラーの役割は、いじめや不登校の問題をはじめ、さまざまの心的悩みを抱える子どもへの対応にある。
その仕事は、いじめや不登校の未然防已ではなく、事後的対応にある。
あるいはまた、カウンセリング活動を通じて、いじめや不登校の個別的な原因をある程度解消することはできても、いじめや不登校の発生基盤を変えることができるわけではない。
カウンセリング活動を通じて、いじめの加害者が抱えるさまざまの不満を解消するとか、不登校の可能性を秘めた生徒に“心の居場所”を提供することによって、いじめや不登校の発生をある程度は抑止することができるだろう。
しかし、たとえそうだとして、それは現に保健室・養護教諭がはたしている機能と同様のものである。
保健室・養護教諭に、その点での十分な抑止機能を期待できないのと同様、カウンセラーにもそれを期待するわけにはいかない。
カウンセラーの配置に意味があるとしたら、それは、いじめや不登校の問題を解決できるからではなくて、第一に、それらの問題に悩む当事者に対して個別的に対応できるからであり、そして第二に、その蓄積を通じて、この問題に対する付き合い方、対処の仕方を制度化することになるからである。
この問題をなくすことができるからではなくて、問題との(平和的な)共存の仕方を獲得することになるからである。
この点を見誤ると、「問題」状況が改善されるどころか、事態のさらなる悪化を招くことになる。
実際、カウンセラー導入に至る経緯、そこで展開された議論には、その危険性が胚胎している。
この点に、筆者が一連の改革論議と具体的な改革プランに異議を唱える一つの理由があるのだが、その危険性とは、たとえば次のようなものである。
第一に、カウンセラー導入に至る議論においてくりかえし言われたのは、いじめや不登校がなくならないのは、学校のあり方に問題があるからだ、教師の自覚が欠けているからだ、学校や教師が適切な対応をしようとしないからだ、といった学校原因論・教師悪者論である。
むろん学校のあり方や教師の自覚と対応の仕方に問題がないということではない。
しかし、問題の責任をもっぱらそこに帰する議論は、学校や教師に対する不当な不信を醸成し、信頼のうえに成り立っている学校教育や教師の活動の基盤を掘り崩すだけである。
第二に、いじめや不登校の増大は、「改革の気分」を動機面で支え、教育の個性化論・多様化論や、公立中高一貫校導入・学校週五日制完全実施といった改革プランを正当化する有力な根拠になっているが、そこでも学校原因論・教師悪者論が前提になっている。
しかし、いじめや不登校が増大してきた背景は、個々の学校や教師の対応のまずさにあるというよりも、むしろ現代の社会生活のあり方にある。
学校や家族のあり方、消費社会や都市社会のあり方、そこでの生活スタイルと人間関係のあり方にある。
そうであるなら、一連の改革プランをいじめや不登校への対応として自明視し正当化してしまうのでなく、それ自体どのような教育社会や学校教育を実現することになるのか、何をどのように変えていくことになるのかを、もっと十分に検討する必要がある。
第三に、カウンセラーは特別の訓練を受けた有資格者として学校に入ることになるが、これは日本の学校では異例のことであり、二重の危険性を宿している。
一つは、いじめや不登校の問題から一般の教師を免罪し、カウンセラーをスケープゴートにする危険性、もう一つは、資格を異にする一般の教師や養護教諭との連携・協力を阻害し、日本の学校の長所となってきたケアリングシステムに亀裂をもちこむ危険性である。
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